藤野台3日目。
東の窓から差し込む陽を浴びていると、どんどん眠くなってくる。春眠、冬眠という言葉はあるけれど、秋眠もあるんじゃないかなと思う。 昨日は予定外に慌ただしい日になった。 Rさんと「軒先マーケット」出店のやりとりに始まり、Sさんからもアプリの件やその他の仕事メールがどんどん入り、「ソロキャンプ」中なのに、都市モードを切り替えることができないまま夕方に突入。 それでも午前中には、気になっていたユッカの子を引っこ抜いて、中位の大きさのもの2本を玄関脇に移植、午後からは引き戸に和紙を貼り、気になっていた作業が一段階進んだ。 和紙貼りは思ったよりも時間がかかり、陽が降り注ぐリビングで汗だくになりながらの作業になった。 貼り終えた引き戸を元の場所に戻す。リビング全体に和の空気が広がり、和紙が醸し出す和力に驚かされる。もう貼る前の雰囲気が思い出せず、どっちがよかったのかわからなくなってきた。 ただ引き戸を外したときにロールカーテンもいいな、と思ったことは頭の片隅にでも覚えておこう。 今回ここに来た目的は「消しゴムはんこの猫の蔵書票」を2つ作ることだった。 せめてひとつくらいは作って帰りたいと、入浴後から始める。きっちり70×90mmサイズ。EXLIBRIS とThis book belongs to の文字も入れてみた。講師だから一応、それなりのサンプルを用意しなくちゃと気合が入った。 ひとり夜の制作時間はとてもいい時間だったけど、文字彫りが終わったところで、寝ることにした。 明日はゴミ出しもあるし、大工さんさんが来るといっていた(職人は朝が早い)から、朝寝坊ができないのだ。でもそんなことより、ここではいつも早起きをしようと決めている。朝もやのかかった清澄な丹沢の雄姿を眺めるために。 しかしながら秋眠に負けてしまう。それでも就寝前の心はいつも決まっているのだ。 もし生きていたら・・・と折りに触れて思い出す友人がいる。コロナで世の中が大きく変わった今、彼女が生きていたらなんていうだろう? わたしがいま抱えている悩みに何と応えるだろう?
いわゆる「ママ友」だった。子どもの保育園で知り合ったのだけど、親しく付き合うようになったのは、わたしたち一家が引越をしてからだ。子どもたちはすっかり疎遠になったけど、彼女の生き方や彼女の文章や彼女の写真に魅せられて、悦子さんはわたしにとっての「人生の師」になった。 彼女が亡くなったのは、5年前の10月31日。 「乳がんだと思う」とわたしに告げてから3年が経っていた。医者にはかからず、ホメオパシー療法で自身のがんに対処していた。悲観も楽観もしていなかった。ホメオパスの資格を持つ彼女は、淡々と自身の症状に向き合っていた(ようにわたしには見えた)。 胸から汁が出るようになり、おしめを当てていたときも、彼女は笑いながらわたしの話を聞いて、励ましてくれた。病名ではなく「症状」を見る。こころの奥に抑え込んでいる物事に目を向けて、「タマネギの皮をむくように」覆っていたベールを剥ぎ取って、治癒の道筋をつけるのが彼女のやり方だった。 乳がんとわかる前から彼女には将来は田舎で自給自足しながら暮らしたいという思いがあった。 外国人の元夫との間にもうけた一人娘が大学を卒業したらと言っていたが、計画を前倒しして、長野に小さな家を買った。200万円で買ったその家に電車とバスを乗り継いで行き、少しずつ内外を整えていた。交通の便もよくないような場所だったし、家具もほとんど備わっていなかったから、春になったらわたしも行くね〜と口約束だけして、ついにその日は来なかった。 彼女の状態が急激に悪くなったのは、夏の終わりに長野の家に行き、買い物出かけた折りに側溝に落ちて腰を痛めたあとからだった。寝たきりになり、24時間の介護体制が必要になった。 何もできないわたしは、彼女に絵日記はがきを出すことにした。 ハンドメイドマーケットに出店するために訪れた香港でも、奇跡を祈りながら彼女に絵日記はがきを送った。 香港から帰ると、彼女は自宅からホスピスに移っていた。 亡くなる前の数日間、彼女は「早く逝きたい」と断食をしていた。痛みだけは嫌だからとモルヒネを打っていたせいか、すこし錯乱することもあったけれど、最期まで穏やかな会話ができた。 旅立つ前日、「せいこさんちょっと足を出して」と言われた。靴下を脱いで足を差し出すと、彼女が横になったまま両手でやさしく丁寧にさすってくれた。 最後の最後に彼女がわたしに教えてくれた利他の行為だった。 |
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