乗る予定の電車をタッチの差で乗り過ごしたとき、そのあともタイミングを逃してばかり、というようなことはこれまでもあった。
今日は、予定より何本か早めの電車に乗ったのに、頭で決めていた「予定」にことごとく振られ、バッドタイミングの連続。こんな日はちょっと珍しい。 ぽっかり空いた時間を埋めるべく(帰宅してもよかったのだけど)、電車が通ればゴーゴーと音のする駅のカフェで、バッグに入れていた『神とパンデミック』(文春新書)を読み始める。 コーヒーをおかわりして、フレンチトーストを食べて、 気がつけば2時間を過ごしていた。 「イエスは仮説的な原因を振り返ることはしませんでした。むしろ、神がそのことに対して何をなさろうとするかと将来に期待しました。言い換えるなら、この問題について自分は何をするかをイエスは考えたのです」 社会的なことであれ、自分自身の身に起きることであれ、何か悲惨な出来事が起こったときに、「あの時ああしたからだ」とか「誰々が何をしたからだ」とか、過去に遡って犯人探しや理由探しをする発想ではなく、イエスはむしろ、神がそのことに対して何をなさろうとするのかという未来を見据えた発想をしている、と著書のひとり山本芳久はいう。 「神がなさろうとしていることに期待して生きる」っていうのはいいなと思った。キリスト教は懺悔することで救われる教えなのかと思っていたから、ちょっと意表を突かれた。 あるハンセン病患者がキリスト教の信者になるきっかけともなったくだりも。 自分が目が見えなくなったり、体に不自由を抱えたのはなぜなのかという問いの中で、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもなく、この人に神のわざが現れるためだ」という「ヨハネの福音書」に書かれている箇所に打たれたことが入信のきっかけだったという。 思わぬ不幸に見舞われたとしても、それは罪(過去世)の報いでも償いでもなく、神のわざが現れるためと受け止めれば、乗り越えられるかもしれない。誰だって、生きていくには「希望の光」が必要なのだ。 予定は大きく狂ったけれど、救われることばにも出会えたし、悪くない1日だったと思い直して、帰路に着く。 最寄り駅のスーパーで買い物をして自転車で家に向かう道すがら、白いものが降ってきた。「すわ、雪?」と思ったが、すぐに鳥のフンだと判明。ギョッ!「ウンが落ちた・・今日を締めくくる決定打!」とひとり苦笑い。 でもすぐに「あ、違う、ウンが付いた・・?」と思い直し、自転車をこぎながら吹き出してしまった。 もしかしてこれが「神のわざ」だったりして?
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